なぜ勉強しなければいけないのか?
かあいがもんさんのこの記事を読んで考ました。
なぜ勉強しなければいけないのか?
という問いは、特に憂鬱な試験前などにはわたしもなんども思ったし、
かあいさんの、「生きてく上で何の知識にもならないことをたくさん詰め込みやがって」という気持ちもわかります。
こんなことを覚えてなんになるのか、大人になったら使わないのに、と友人たちと何度グチったかしれません。
でもあれから何年も経った今、わたしは違う思いを持っています。
なぜ勉強しなければいけないのか?
とあの日の自分に問われたら、
「せかいの豊かさを知るためだばかやろう」
と答えたい。
勉強とは、本来そういうものなのだと今なら思えます。
いい大学とかいい会社とかそういうのじゃなくて。
このせかいがどのようにして成り立っているのかという「せかいのひみつ」を知りたくて、先人たちは「勉強」してきました。
それぞれの人がそれぞれのやり方で、「せかい」に対してアタックしてきた結果の積み重ねが学問で、
それが物理学、言語学、社会学、などのさまざまなジャンルにわかれました。
これらは、その人たちがどこからせかいを見たか、せかいとどのようにむきあってきたか、ということの答えのひとつひとつです。
そして、せかいの見方、むきあい方はいろいろある、ということを知ることは、
確定申告や役所の手続きのやり方を教わるのとはまったく違った意味で「役に立つ」ことです。
「金槌しか持たないものは、すべての問題が釘に見える」
これは心理学の言葉か何かだったでしょうか。忘れてしまいましたが……
勉強するほんとうの意味は、道具というのは金槌だけではない、ということを知り、持てる道具を増やすということだと思います。
そうすれば、自分にとってのせかいは今よりもっとずっと豊かになる。
つまり、人生が豊かになる。
たとえそれが自分には理解できない道具だったとしても、それが存在することを知ること、そして自分が理解できないものにも敬意をはらうこと。
それだけでもずいぶんせかいの見え方は変わってくると思います。
結局、自分の見えるようにしか、せかいを見ることはできません。
すべてが釘に見えたなら、それは確かにつまらないせかいでしょう。
あらたな道具を手に入れるために。
わたしもブログがんばろ~っと。