こまだこまのロバの耳ブログ

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東京都受動喫煙防止条例に関する署名に署名した。非喫煙者として。

嫌煙家と愛煙家は共存できないのか

先日、とあるお店でこんなポケットティッシュをもらいました。

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東京都受動喫煙防止条例(仮称)の基本的な考え方|とうきょう健康ステーション

このページを見てみると、 たとえばわたしの好きなバーやスナックに関しては原則屋内禁煙

 

原則屋内禁煙とは、建物内では基本的には禁煙だけど、一定要件を満たした喫煙室を設置できればそこでは喫煙可能。

 

 面積30㎡以下のバー、スナック等(主に酒類を提供するものに限る)で従業員を使用しない店、又は全従業員が同意した店、かつ未成年者を立ち入らせない店については、利用者が選択できる掲示を義務付 けた上で、喫煙禁止場所としない。

 

とあります。

 

個人のお店の経営方針にたちいるのはおかしいんじゃないかとか、タバコが悪だというなら喫煙という行為を制限するんじゃなくてどうせならタバコそのものを規制すればいいじゃんとか、

でもまぁこうしてじわじわと喫煙という行為を制限することによって最終的に喫煙者およびタバコを撲滅しようとしているんだろうかとかいろいろ思いますが、

なんにせよ屋内を一律禁煙にするという考え方については、なんか気持ち悪いなぁ……というのが正直な感想です。

 

喫煙者と非喫煙者は共存ってできないもんかといつも思いますが、禁煙推進派からしたら、これが「共存」ということなんでしょうか。

こんな禁煙ファシズムはいやだ

www.komadakoma.com

以前この記事でも書いたように、わたし自身は非喫煙者ですが禁煙ファシズムは怖いし、生理的になにかいや~なものを感じます。

このいやな感じってなんだろうと考えていたら、すごくしっくりくる記事を見つけたので一部引用させていただきます。

千葉雅也 禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ | Web Voice

より。

 

禁煙ファシズムの根底にある考え方として、

自らの身体を外界から区切られた「領地―プロパティ(私有財産)―不動産」として考え、境界を侵犯するものを拒絶することです。近年、右派と左派のいかんを問わず「身体の私的所有」を強める傾向が見られると思います。

「身体の私的所有」という感覚。

これですね。すごくしっくりきました。

 

さらにいえば、「身体という領土」とは、「自分という資本」です。それをガッチリ掴んでいる。他者との偶発的な関係によって「自分という資本」が目減りする、不完全化するのを避けたいというわけです。

受動喫煙によって、

「自分の身体という自分だけの資本」

の価値が損なわれる、それはあるまじきことだ、という感覚があるってことですね。

 

現代社会から失われたのは身体のコミュニティ、身体の共有性でしょう。かつては、自分と他人の境界がもっと曖昧であり、「身体の私的所有」という観念はもっと弱かったのだと思います。旧来の共同体で生きていた人たちは、「自分の生活は100%自分の意志でコントロールできるものではない、時には他者が土足で踏み込んでくることもある」といった身体感覚を共有していた。
 しかし21世紀に入ってグローバル化が進行すると、市場原理主義に基づくネオリベラリズム(新自由主義)の経済体制が強まり、社会の細分化・個人主義が進みました。それと並行して、社会から身体を共有する意識が失われていったというのが、私の見立てです。

受動喫煙に対して「まぁそういうこともあるだろう」程度にしか感じないわたしはつまり「古い人間」ってことです。

 

禁煙ファシズムの人たちは、

  • 完全に自分だけの領土であり資本である自分の身体が他人によって「損なわれる」ことは許せないことだしあってはならないことである。
  • そしてこの理屈の正当性に関して疑うべきところは何もない。

と思っている。

 

わたしが禁煙ファシズムの人たちに感じたいや~な感じの元は、この2つの点だったんだなぁと腑に落ちました。

なんだろう、だってこれってすごく傲慢…というか、しみったれた考え方のようにわたしには思えます。

スッキリしたので署名した

わたしが感じたいや~な感じの正体がわかってスッキリしたので、署名しました。

東京都受動喫煙防止条例に関する署名のお願い

 

でもきっと禁煙ファシズムは今後も加速していくんでしょうけどね。

やれやれ。

 

喫煙者と言えば……で思いついた方々。