こまだこまのロバの耳ブログ

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誕生日を祝われたくない。そもそも「誕生日」ができたのは昭和になってから!

誕生日はいつもどおり、何事もなく過ぎていってほしい

わたしは誕生日を祝われることが苦手だ。

「今日誕生日だよね?おめでとー」と軽く言われるくらいなら「たはは…ありがとうございます」とへらへらしてればすむけれど、本格的に祝われる感じのやつがきびしい。

サプライズなんてもってのほか。

みんなで楽しく飲んでいたら急に店内が暗くなって、ハッピーバースデーの大合唱とともにケーキが運ばれてくる…みたいな展開は想像するだけで背筋が凍る。(されたことないけど)

 

こんなふうに思う人がどれくらいの割合でいるのかわからないけど、

なぜわたしは誕生日を祝われることが苦手なのか?という理由について考えてみた。

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①主役になりたくない、目立ちたくない

「主役」というポジションに慣れていないしなりたいともあまり思わないタイプのため、いきなりその立場に立たされてもとても居心地がわるい。何もおもしろいことできないし。

 

②プレゼントやサプライズ的なことをして頂いた場合、適切なリアクションをしなければ、というプレッシャー

大げさすぎずわざとらしくなく、それでも喜んでいることが相手に伝わるようなリアクションがちゃんとできているだろうか?と心配になってしまう。

わたしを喜ばせようとしてくれた人を喜ばせなければ、と気負ってしまう。

 

お祝いしてくれた人にお返ししなきゃ、と思って憂鬱になる

この人の誕生日いつだっけな…お返ししなきゃいけないよな…めんどくさいなぁ…と考えてしまって、祝われていることを素直に喜べない。

 

④そもそも誕生日にさほど興味・関心がない

上にあげた3つは結局のところ、これが元の原因であるような気がする。

興味のないことで祝われて「主役」にされても身の置きどころがない。リアクションにも困る。なのにお返しはしなきゃと思うから憂鬱。

ってことだと思う。

36年も生きたのかー、としみじみ思うことはあるが、誕生日について思うことは、それ以上でも以下でもない。

誕生日に主役としてふるまうことが楽しくて仕方がない人

なんでこんなことについて考えたかというと、

先日、友人の誕生日ということで飲み会があった。

 

彼は、自分が場の中心になることが最も居心地が良いと感じる、わたしとは正反対のタイプの人で、みんなが持ってきたプレゼントをなんの遠慮もてらいもなくどんどん開けていく。

そしてひとつひとつ、そのプレゼントと贈り主と共にに笑顔で写真を撮る。

それらはもちろんSNSにアップする。

 

自分の誕生日は特別な日で、自分が特別に扱われるべき日なのだということを疑わないその様子は、とても無邪気というか、信じられないような気持ちで見た。

誕生日を祝うという習慣はいつからあったのか

「お誕生日」という考え方が、そもそもいつからあったのか?ということについて、たしかこの本に書いてあったはず…と本棚からひっぱり出した。

この本の説明によると、誕生日を祝うという習慣は、かつては貴人だけのものだったようだ。

近代以前、庶民は満年齢ではなく数え年で歳を数えていたので、そもそも「誕生日」というものがない。

 

数え年とは、生まれて一歳、年が明けると二歳というふうに、正月にみんないっせいに歳をとるので、個人の「誕生日」という概念はない。

個人の年齢は、一年区切りという社会のルールの方に合わせて数えられる。

個人よりも社会優先の数え方。

 

それに対して満年齢は、社会とは関係なく、その人が個体として何年生きたかで数えられる。社会よりも個人を優先する考え方だと言える。

 

数え年から満年齢で歳を数えるようになったのは、1950年(昭和25年)「年齢のとなえ方に関する法律」が定められてから、ということを、この本を読んではじめて知った。

 

それより昔に、大人なのに誕生日を祝う限りは、それは自分が世に存在している意味があるのだ、という強い自意識に支えられていないといけない。何でもない普通の人は、そんな大それた考えは持たない。誕生日を祝ってもらうことは、自分のプライベート部分をパブリックに渡してしまっている意識がある人しかできなかっただろう。たとえば、自分が死ぬとその国の何かが変わるとか、後継ぎの男子がいないと非常に多くの人を巻き込んだ争いになってしまうとか、そういう立場の人だ。つまり国王と、また生まれながらに公的な生活を持っている貴族の意識である。少なくとも、生まれたときから貴人でないと、誕生日には意味がない。成り上がった覇王の誕生日は、祝ってもらえない。成り上がり者の典型である太閤秀吉は、だから誕生日が一月一日なのだ。架空ですな。

 

誕生日を祝われることが苦手な人の心理について、「自分なんかが祝ってもらうのは申し訳ない、と自分の価値を低く見ている。自己肯定感が低い人」のような分析をいくつかネットで見たが、自己肯定感うんぬん以前に、そもそも実際に昔は貴人のみが誕生日を祝われていたのだ。

 

戦後、みんなが貴人になってしまったということなんだろう。

わたしの理想の誕生日の祝われ方 

祝われるのが苦手とは言え、わたしのような者を祝ってくれようとするお気持ちは大変にありがたい。

でもおおげさなことをされるのはつらい。

お前は何様だというつっこみはさておき、わたしの理想の祝われ方について書いてみたい。

 

誕生日を1か月ほど過ぎたころ、友人と飲んでいると

「あれ?そういえばもうすぐ誕生日じゃなかったっけ?」と言われ、

「あぁ、もう過ぎたよ」

「えっ?言ってよ~!じゃあ今日の飲み代出すよ。なんでも好きなもの食べなよ!」

といつもの安い居酒屋で言われる。

 

くらいの軽さが理想。ちょうどいい。誕生日当日でないところもいい。

これならわたしも安心して祝われることができる。友人を祝うときも、これくらいで喜んでくれる人だとうれしい。

 

 

去年の誕生日はヨーロッパを旅行中でルーマニアにいた。

今年は普段通り、静かに過ごしたい。

 

商品説明に「人は誕生日によって運命が方向づけられ、自己が決められています。」

って、わたし金正日と同じ誕生日なんですけど。

 

www.komadakoma.com

 金正日にはまったく運命感じませんけど。