私も彼氏も好きな落語家のひとりである三遊亭遊雀が浅草の寄席に出演していたので、久しぶりに二人で浅草演芸ホールに行った。
演目は「堪忍袋」という話で、遊雀が寄席でよくやる話なので私たちは何回も観たことがある。何回も観ているんだけど、それでもやっぱりおもしろい。ストーリーというほどのストーリーはない、夫婦げんかにご近所さんが仲裁にはいる、というただそれだけの話だ。
それだけの話がこんなにおもしろくなるのだから本当にすごい、と思いながら見ていてはっと気がついた。
保坂和志が言ってたことってこういうことだよな。
保坂和志とは芥川賞や谷崎潤一郎賞を受賞している作家で、Wikipediaの説明にはこうある。
「ストーリー」のない何気ない日常を描くことを得意とし、静かな生活の中に自己や世界への問いかけを平明に記していく内省的な作風。
小説を最後まで読ませる推進力というのは、ストーリーだけではない。このあとこの人どうなっちゃうんだろう?とかハラハラドキドキさせることだけが、読み手をひっぱるのではない。
一行読めばまた次の一行が読みたくなる。文章、文体それ自体が推進力となるような小説を書きたい、いわゆる「ストーリー」はなくてもいい。
……と、たしかこういうようなことをなにかの小説論に書いておられて、それがずっと記憶に残ってたんだけど、遊雀の落語を聞いていて、急に腑に落ちた。
落語ってそうじゃん。
同じ話をいろんな人が演じる落語においては、観客にとってストーリーそのものが重要なのじゃない。その人がどんな風に話すのかこそが重要で、小説における文体が、落語家における語り口ということになるんだろう。
そんでもってブログもそうじゃね?と思った。まとめ記事などの情報系ブログはおいといて、おもしろい雑記系ブログなんかはそうだ。そこにたいしたストーリーはなくても、その人の切り口や文章、文体で読ませる。でもそれって一番難しいことだよなー。
三遊亭遊雀も保坂和志もブロガーも、すごく難しいことをさらっとやっている。ように見えるのがすごいよなあ…などと頭のすみで考えているあいだに、あっというまに遊雀の持ち時間は終わってしまった。
ちょうどいい頃合いなのでそろそろ出ようということになり、彼氏は外の喫煙スペースへ行き、私はトイレへ。私がトイレから戻って外に出ると、なぜか彼氏が落ち込んでいる。
出番を終えた遊雀がたったいま目の前を通って帰っていったらしい。突然のことに声をかけることができなかったと、肩を落としている。もったいない!握手くらいしてもらえばよかったのにー!と言うと、もうそれ以上言わないでくれ……とさらに肩が落ちたのでかわいそうになって私も黙った。
次の日の夜、日テレの「世界の果てまでイッテQ!」で出川哲郎がカンヌ国際映画祭でハリウッドスターたちと写真を撮るというおなじみの企画をやっていた。それを見ていた彼氏が、ほら出川さんも‼(彼氏が一番尊敬している芸人が出川哲郎なので、わが家ではさん付けで読んでいる)と言うのでなにかと思ったら、クリントイーストウッドだった。
出川さんはあらゆる大スターに近づいて写真を撮るのだが、クリントイーストウッドには憧れが強すぎるあまりに1度めは近づけず、2度めにようやく接触に成功したらしい。
「好きすぎると近づけないもんなんだよ…」と昨日の遊雀スルー事件をまだひきずっていた。でもその好きすぎて近づけない気持ちを抑えてちゃんと芸人として2度目にアタックした出川さんさすがだよね、俺も次こそは!でもなんて声かければいいんだろう?遊雀さん?遊雀師匠?師匠はちがうか。やっぱ遊雀さんでいいのか?
……知らんがな。
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